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11.72016
筆跡診断 宮沢賢治の清廉潔白

宮沢賢治といってみなさんは何を思い浮かべるでしょうか…
「学校の先生」「童話作家」「農業指導」「注文の多い料理店」
「銀河鉄道の夜」「雨にも負けず、風にも負けず…」等々。
筆者の世代は松本零士の『銀河鉄道999』にのめり込んだものですが、
その名称からもお察しのように
『999』は賢治の『銀河鉄道の夜』がモチーフになったようです。
賢治は学生時代、同人誌『アザリア』を創刊。
掲載の筆跡は昭和8年、
賢治が同誌の創刊メンバーだった河本義行宛にしたためたものです。
病気療養の身であった賢治は、
この年の9月に37年の短い生涯を閉じました。
つまりこの葉書は、賢治の「最期の年賀状」ということになります。
お世辞にも達筆とは言えず、あまつさえ稚拙な印象すらありますが、
どことなく親しみやすく、実直で素朴さを感じさせる筆跡ではあります。
加齢や病気により線にブレや結滞が生じることがありますが(線結滞型)、
賀状を見る限り、この数ヵ月後に亡くなるとは思えぬ、
しっかりとした送筆です。
臨終を迎える直前まで詩や童話を生み落とし続けた賢治の創作意欲は、
病によって失われるものではなかったようです。
むしろ、才気横溢を示す横線左方長突出型や
想像力たくましい転折丸型が認められるように、
我が身の内から沸々と湧きあがる生命のエネルギーを
創作に燃やし続けたことに、畏敬の念すら覚えます。
賀状の宛名面を見ると、
葉書の大きさに対する文字の大きさが見て取れます。
大字型の特徴として、行動量の大きさという外的側面とともに、
子どもの心を持ち続けているという内的側面も指摘できます。
病ゆえ行動が限られ体の自由が利かない分、
心はいかなるしばりや制約も受けることなく躍動し、
無垢な心そのままにペンを執り続けたのでしょうか。
健常時の賢治は、
自分が良かれと思ったことには惜しみなく力を注ぎ、
人に分け隔てなく与える人物だったようです。
貧しい農民の生活をより良くするために羅須地人協会を立ち上げ、
学習会や音楽会を開いたりしていました。
筆跡からも妙な堅苦しさや気難しさは感じられず、
他人への思いやり(接筆開型)や進取の気性(転折丸型)、
豊かな情感(連綿型)などが、随所にちりばめられています。
走り書きのような筆速を感じさせる筆跡ではありますが、
意外にも等間隔性は保たれているようです。
学生時代は英語やドイツ語に堪能で、
教授から科学論文要約の助手を任されるほど。
卒業時には助教授にも推薦された頭脳の持ち主でした。
詩人や童話作家という感性を表にしたイメージからはかけ離れた感じもしますが、
数々の作品を生みだす底流にロジカルな思考性も手伝っていたのかもしれません。
賢治の筆跡には、総じて文章が書き出しの位置より
右へ少しずつズレていく傾向があります。
行下部右ズレ型は悲観的でマイナス志向タイプに見られる特徴です。
詩や童話で夢を描く作品の表情とは裏腹に、
生活面や健康面でいつも抱えていた心の不安が、
筆跡でひょいと頭をもたげていたのかもしれません。
賢治評に一部批判的な見方もあります。
たしかにその生き方は不器用で現代でいうところの「勝ち組」とは言えません。
しかし「雨ニモマケズ…」冒頭の「雨」「風」に見られる強いはね、
それはそのまま心の強さを表します。
経済苦や病苦にいつもつきまとわれながら
「絶対に負けるものか」との強靭な意志表示を、
筆跡で訴えかけているようです。
その心的背景として、宮沢家の宗教でもある、
自分一人の救いや死後の極楽浄土での救いを説く浄土真宗を捨て、
自他ともの救いや生きている「今世」での成仏を説く
法華経に帰依したことと、無関係ではないでしょう。
賢治は生涯、
自分が目指す「仏国土」実現の戦いをしていたというのが、
筆跡から導かれる結論になります。