筆跡診断 源義経の天才と凡庸

名だたる戦国武将のなかでも「悲劇のヒーロー」として
強烈なインパクトを残した源義経が、今回の主役です。

義経の名前が歴史上に登場したのは、実質わずか5年余。

これほど短い武士生命でありながら、
これだけ永い間人々に愛されつづける義経の魅力を、
遺された筆跡から探ってみたいと思います。

 

義経の幼名は有名な牛若丸

父の謀反による係累の難を逃れるため、家族が離散し、
京都 鞍馬寺に預けられます。

出家を拒み出奔した義経は、
母の再嫁筋にあたる藤原秀衡を頼って、奥州平泉へ。

長じて、兄 頼朝と涙の対面を果たした義経のその後の活躍は、
みなさんご存知の通り。

京の五条の橋上での弁慶との出会いから、
ひよどり越えの逆落とし、義経の八艘跳(はっそうとび)、
安宅関の勧進帳、妻静御前のおだまきの舞、弁慶の立往生等、
数えきれないほどのエピソードを残し、源氏の世を招来しました。

 

一方で、義経の周辺に暗雲が垂れこめます。

合戦で次々と手柄を立て、戦功を独占する義経を貶めるため、
梶原景時が頼朝に義経の傍若無人ぶりを讒言。

次第に募らせる頼朝の勘気をとけなかった義経は
やがて追われの身となります。

頼朝は義経を追うことで、朝廷に総地頭としての存在感を示すとともに、
義経が鎌倉幕府の支配下にない藤原氏のもとに逃げこんだことで、
奥州を討つ大義名分を手に入れます。

義経を厚遇した藤原秀衡が病没後、嫡子の泰衡が義経を急襲し、
追い込まれた義経は自刃。

31歳の若さで波乱の生涯に終止符を打ちます。

 

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和歌山の金剛峯寺に所蔵されている引用の筆跡は、
平家を破り総司令官としての任に就いていた頃、
寺に与えた裁決を記したものです。

一行目「大」「寂」の右ばらいが長さが目を引き、
思い込みの強さを感じます。

一方で、二行目「楽」「道」等 横線の等間隔性が高く
冷静で合理的な感覚の持ち主であったことがわかります。

ともに相反する特徴のようですが
「心は熱く」「頭は冷静に」という性格だったのでしょう。

その辺りは、暴風雨のなか出陣した屋島の戦いや
逆落としを決行した一の谷の戦いなど、
一見無謀とも思える奇襲をかけながら、
頭はつとめて冷静に勝利の青写真を描いていた様子にうかがえます。

これほどの軍事の天才がなぜ早逝の運命をたどることになったのか。

その悲劇を暗示する特徴が、筆跡にも刻み込まれていました。

義経の筆跡を見ると、縦線が右に傾く文字が多いことがわかります。

この特徴は「転倒運」ともいい、
倒れるかもしれないという危機感が希薄で、
挫折に通じる事象を自ら招き寄せてしまう
心的背景を持っていることを意味しています。

また、行の下部が全体的に左へ左へとズレていく特徴は、
楽天的性格を表します。

景時の讒言以外にも、許可なく朝廷から官位を受けたことなど、
次第に深めていく頼朝の不信感を重く受け止めていなかったことが
悲運を招いたとも言われています。

他にも一行目「中」や二行目「押」など
下部接筆が大きく開いている文字も多く、
事に当たってのツメの甘さがあったようです。

朝廷の庇護を受けながら地位向上を目指した義経は、
力でねじ伏せるタイプの兄への細心の配慮を怠ったことで、
自らを追い込んでしまったと考えられます。

義経の筆跡には、攻撃的な気性より、
むしろ人の好さすら感じます。

軍事の天才でありながら、
その実、誰よりも平和を望んでいたのかもしれません。

天才と凡庸が混在する義経の魅力は、
その筆跡にもしっかりと刻み込まれていました。