筆跡仕事人

筆跡診断 次郎長親分の男気

「清水みなとの名物は お茶の香りと男伊達~♪」

この「旅姿三人男」に登場する
小政、大政、森の石松を子分に従えた幕末の大親分
清水の次郎長が今回のテーマです。

いち任侠に過ぎない次郎長が永く語り継がれる由縁を、
彼の筆跡から探ってみます。

 

本名は山本長五郎。

叔父山本次郎八の養子となり、
次郎八の長五郎が転じて次郎長と呼ばれます。

若き日の次郎長は喧嘩と博打に明け暮れる日々。

その後、出奔して剣術と度胸に磨きをかけ、
甲州津向の文吉と駿州和田島の太左衛門の抗争仲裁で
その名を知らしめます。

 

刃も切れれば頭も切れる、
筋も通し義理も固い、
そんな次郎長を荒くれ者たちは慕い、
隻眼の侠客・森の石松や、槍の使い手怪力無双・大政、坊主崩れの法印大五郎など、
そうそうたる顔ぶれの子分衆が名を連ね、
いつしか名立たる大親分に。

これら多士済々を束ねた次郎長の人望人徳が偲ばれます。

 

時くだって明治元年。

旧幕府の残党を乗せた咸臨丸が、清水港内で官軍の砲撃を受け沈没。
遺体放置の命が下るも、
次郎長は「死ねば仏。仏に官も徳川もない」と遺体を収容、
手厚く供養・埋葬をしました。

この「咸臨丸事件」に感銘を受けた
江戸無血開城の立役者山岡鉄舟は次郎長と親交を深め、
次郎長もまた鉄舟から大いに感化を受けます。

知遇を得た次郎長はその後、
山林開発、新田開拓、河川架橋、油田発掘の他、富士裾野の開墾に自ら鍬を振るうなど、
さまざまな社会活動に身を投じます。

また「これからの時代は外交」と青年の英語教育に力を入れ、
自らも蒸気船を所有し清水港の発展に尽力するなど、
先見の明を発揮しました。

 

幼少から勉強嫌いで読み書きの苦手な次郎長が残した直筆はわずかで、
その文字も大半はひらがな。

人への手紙も代筆が大半でしたが、
敬愛する山岡鉄舟や妻おちょうに対しては、
たどたどしくも自らの筆でしたためています。

文節の所々に区切りの「。」を付けるなど、
次郎長の筆不精な様が見て取れますが、
一言一句に魂を込め、
心の思いを文字に託さんとする真剣さと嘘のつけない人柄が、
半紙の向こうから伝わってくるようです。

 

 

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「むらたでん志ろうとわ。
  わしがなかよしだ
  から。てう志うぢのことわ
  一正けんめいだから。
  あんしん。して。お
  くれな。さい。
  おおぎの。ことわ。
  でんさんニ。わけお。
  きいておくれな。さい
  まつおか。さんニ
  てかみて。たのんで。
  あけたから。よろし
  く。おたのみ。もうし
  ます。
  十月一日
  清水 山本長五郎
  やまおか
   せんせいさん
  おくさんニよろしく」

 

筆跡特徴として目立つ横広型は、旺盛な行動力を表します。

先に挙げた社会活動も
「人に汗水をしぼらせて自分が儲けるなんざ、この次郎長には出来ねえ」と、
自らが率先して汗を流すことをいとわなかった性格からよく理解できます。

 

当代きっての大親分であった次郎長ですが、
上から人を押さえつけて強引に従わせるのではなく、
「和」や「共感」を重んじていたであろうことが、
頭部突出控え目型特徴から窺えます。
字間も窮屈さがなく余裕のある書き方をしており(字間アキ型)、
周りに紛動されず自分のペースで粛々と
事を進めるタイプであったことが想像できます。

 

抗争と博打に費やした前半生から、
人や社会に尽くす事業家・社会活動家の後半生へと転換させた次郎長は、
幕末から明治を生きた誠の任侠でありました

 

日頃は子供に菓子を分け与え、
貧しい人には金をやる。
人情もろくて義理堅い。
言葉が荒いが男気あり、
やたらおせっかいをやきたがる。

 

巷間、人々が親しみを込めて『次郎長さん』と呼んだのも、
情に厚い彼の「連綿型」筆跡が成せるわざだったのでしょうか。